英国のドミニー博士(Dominiy 博物学者)が、ランの発芽に初めて成功したのが1853年である。ペリーの黒船が日本に来た年である。蘭の発芽には「ラン菌」が深く関与していることを世界で初めて実証したのである。このとき実験に用いられたランはエビネのツルラン(funcata)×オナガエビネ(masuca)で1856に初花が開花。Calanth Dominyi カランセ ドミニーと命名RHS登録。
この実験の方法が「ラン親鉢播種法」である。博士は、ランが植えられている鉢には
ランと共生している「ラン菌」が生息しているという仮説をたて、1852年にランの種子
をランの植えている鉢に蒔いて翌1853年に3本の発芽に成功した。それまで、人間は
他の植物のようにランの種子を蒔いても一本の苗も得ることは出来なかった。このために、
ランは他の植物のように新しい品種を創ることは出来なかったのである。新しい品種を
創る「育種」は蘭界の夢であった。この技術によって育種の道は拓かれた。
ラン菌の発見は、顕微鏡の発明によってなされたものであるが、微生物の発見、観察はオランダの博物学者であるAntony van Leewen Hoek (1632〜1723)にさかのぼる。ランの研究は博物学の中の「植物学」の一分野として行われて、ドミニーがランの発芽に「ラン菌」が関与していることを証明したことによって、以後、植物学と微生物学は深い関係を持つことになった。
バヤン (1795〜1871)他は酵素ジャスターゼ、アミラーゼ発見。
ダーウイン (1809〜1882)は1859年に「種の起源」を出版。
パスツール(1822〜1895)は1861年に発酵が微生物の増殖によって行われることを発表。
1862には加熱殺菌法の最初の実験を行う。
メンデル (1822〜1884)は1865年にメンデルの法則発表。
ロベルト コッホ(1843〜1910)は1876年に微生物の寒天培養法を開発。
ドミニー博士がラン菌によるラン種子の発芽に成功した時代は、歴史に名を残した天才が次々に偉大な発見をした時代でもある。ラン界はその後、時代の最先端の科学を取り入れて大発展し、今日まで脈々とその流れは続くことになる。1910年、ナドソンはラン菌(材木腐朽菌)が分解してランの種子に供給する物質は「糖」であることを突き止め、コッホの微生物寒天培養法を応用し、培養基に「糖」を添加し、ランの「無菌播種法」の開発に成功。この開発によって、ドミニーの発見した「親鉢播種法」は日本の洋蘭界では1950年代まで、カトレア、パフィオなどで一部の育種家によって行われていたが、1960年代に入ると殆ど行われなくなった。容易に大量の実生苗が得られる「無菌播種法」が世界の標準の技術になり、以後多くの蘭で品種改良が急激進むことになる。
1960年、モレルがランのクローン技術を開発。
クローン技術の開発によって、優良品種の大量増殖の道が完成し、ラン「産業」への道が拓かれた。
蘭界は、これほどまでに科学した歴史で発展してきたが、栽培の根本である「コンポスト」は科学されることは無かった。植えてみて「良く育った」ものが使われて来たに過ぎない。「自生地」を再現するという「科学性」が、ナドソンの「無菌培養法」の下で失われた。ランと蘭菌との共生関係の研究が行われなくなったために、コンポストから「ラン菌」は削除されてしまった。
その中には未だに無菌培養で発芽しないランが多くあり、クローンできないランも極めて多い。その中には「絶滅危惧種」も多くある。フラワービジネスとしてのラン産業は、毎年膨大な量の「水コケ」を消費するが、この「水コケ」の枯渇と自然破壊が問題視される時代になった。どんなランでも容易に栽培出来るコンポストの開発は、ラン産業の発展、ランの普及のみならず、絶滅危惧種の保存、ランの大普及という面からも必要になった。
2004年、宇井清太開発の「ペレポスト SUGOI-ne」は、どんなランにも共通する材木腐朽菌(ラン菌)によって、
ランの自生地を再現するコンポストである。1853年ドミニー博士が、世界で初めて発芽に成功した原点に返りながら開発した究極のコンポストである。ペレポストSUGOI-ne には、世界最先端の科学が凝縮されている。ペレポストSUGOI-neにCymbidium が見事に発芽し生育した。
ラン界の夢の究極のコンポストであることを実証した。
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